2011年6月アーカイブ
Etoile
オーラがあるからスターになれるのか…
スターになったからオーラがあるのか…
「性善説」「性悪説」そんなことと重ね合わせるように、ふと疑問が浮かびました。
というのも先日、初めて宝塚歌劇を観劇しました。
イメージどおりのキラキラした世界で、期待を裏切らない楽しさを味わいました。
宝塚という独特な世界観は、ある種、他から差別化に成功した「ブランド力」があると思います。
あの空間は、時代が止まっています。
昭和の宝塚スターに憧れていた世代は、永遠の色あせない青春を映しつづけるステージであり、平成真っ只中に育った世代は、そのレトロな空間に新しさを感じる。
羽や電飾、ミラーボールの要素以上に、スター達の輝く目力は、圧倒的に舞台セットや衣装を遥かに上回る輝きでした。
「バレエの美学」…それは心の内を出し切らない、規律の中で動く、それはどこか日本的で、ヨーロッパからきた文化とは思えない、派手すぎず抑えた美しさがあるように私は感じています。
バレエダンサーのオーラは身体から発せられています。
でも宝塚はそれとは違い、「顔」や「目」でもの凄いオーラを放つのです。
もう絵に描いたように「スター」という名ににふさわしい動きをしてくれます。
私はそのスターが放つ「オーラ」の凄さにただただ、このエネルギーは何なんだろう,,,と考えながら見ていました。
自信があるから?好奇心があるから?…
断言できるのは「オーラ」は年齢や経験に関係ないということ。
答えはまだ見つからないけど、「オーラ」を持っている人は、人を飲み込むことができて、そして色んな人をどんどん巻き込んで、また大きな「スター」という輝きを放つのですね。
目には映らない感じる何かを持っているって、素晴らしい。
「スター」…バレエでいうと「エトワール」の誕生。
それは本人が生まれて、ひとつの目標に没頭し、努力なしでは不可能な二度目の誕生。
その二度目の誕生が出来るかどうかが、華やかな世界で生きる面白さなのだと思います。
Bolero,,, Black & Red
漆黒の中、赤い円卓の上で動く一本の旋律、メロディ。そしてその円卓を囲むリズム達。
ラヴェル作曲の「ボレロ」は偉大なる振付師モーリス・ベジャールによって、バレエの歴史を刻みました。
「静寂」と「騒然」,,, 相反する二つの言葉が同時に混在し、見るものをぐんぐん引き込み、
最後、倒れ崩れるメロディのように、観客をも疲れ倒れさせてしまうような強烈に心に訴えてくるものがあるこの作品は、
私は、「宗教」たるなんらかの「儀式」を見ているように思わざるを得ない。
それはどこか日本の寺院の、日本の伝統の赤と黒ともとれる色彩にも思える。
モーリス・ベジャールが何からインスパイアされ、作品を描いたかは彼自身しか知り得ない。
ベルギーの香りも感じますが、私は「巫女の舞」にも重ね合わせてしまうのです。
「巫女の舞」には一切の欲を制し、崇高な域で存在するあの舞は、「静寂」しか目に映らない感じもします。
それから比べれば、ボレロは最後、欲をむき出しにしたような表現にも見え、「生け贄」のようにも映る。
真逆のベクトルにあるモノかもしれないけど、私はその二つは同じ香りがする。
やはり私には儀式のような宗教的な比喩でボレロをみてしまうけれども、ある意味、作品そのものを崇高な域へと導いた
モーリス・ベジャールの功績は素晴らしく、20世紀のバレエの神としてあがめてしまう。